
急なことでしたが、4日の早朝に母方の祖母が亡くなりました。
田舎が九州でして、親戚もみんな九州でして、母だけ結婚して上京してきた…というスタイルなので、横浜から大慌てで飛行機の予約して速攻で飛んで帰っていました。
4日の夜にお通夜、5日はお葬式。
ただつらつらと書いてしまいましたが、私の祖母の話です。
ゴーオンジャーのイベントにも行ったのですが、今日はそのことは書いていません、すみません。
イベントレポは後日日記かレポートにまとめるつもりですので、もしも気に掛けて下さる方がいらっしゃいましたら、今しばらくお待ち下さいませね。
さて、先に急なことと書きましたが、本当は急なことでもなかったんですね。
8年前に肺がん・5年前に乳がん・そして1年前に脳腫瘍…これだけに留まらず本当に生涯病持ちの人で、手術してやっと治ったのに、また今度は、以前の転移ではなく新しく発病…ということが多くて、きっととてもとても痛かっただろうし辛かっただろうけれど、決して弱音を吐かない人でした。
体に手術の跡がたくさん残り、治療で髪の毛も抜けてしまったし、本当に言葉には決して出さないけれど、あんなに辛いことって無いだろうというくらいで、おばあちゃんが泣かない分、私の方が泣きたくなるくらいでした。
自分も辛いはずのに、祖父がアルツハイマー症と診断を受けてからの10年間も、祖父の介護に携わり、労り慈しんでくれました。そんな祖母の手伝いを、少しでもと思ってしていたつもりでしたが、私はやはりそう気軽には帰れず、たまの短期間の帰省しか出来なかったのが、今本当に悔やまれます。学校の課題なんて担いででも帰れば良かった。仕事なんて無理言っても帰れば良かった。もっと長く一緒の時間を作れば良かった。
孫は私だけではないですし、母の兄弟も親戚も、祖母の周りにはたくさん見てくれている人がいましたが、それに甘えていた部分があったのだと思います。それに、いつでも帰れる、いつでも帰ったらいてくれるのだと、思っていました。
脳に腫瘍が見つかってからの祖母は、あっという間に今まで出来ていたことが出来なくなり、立てなくなり、歩けなくなり、祖母の介護に帰省した期間もありましたが、そんな日々も長くは続かず、祖母は家での生活が難しくなり、病院に入ることになりました。入院してからも何度か転々と移動しましたし、体調は悪くなったり安定したり、医師からは「良くなることはない」と言われました。
だんだん食べることも難しくなり、8月に入ってすぐに、叔母からの連絡で、医師より「今年いっぱいも難しいくらいなので、いつどうなるか分からないことを覚悟して下さい」と言われたことが伝えられました。
そして4日の早朝、母から祖母の他界を伝えられました。
祖母が入院した後で、祖母の日記と幼少の頃の思い出が書かれたノートを見つけたことがあります。
戦争の時代をくぐり抜けて、小さい時から苦労の連続だったこと、辛かった日々のこと、体に痛みがあること、歩くのが辛くなってきたこと、身近な人の死がとても辛いこと、たくさん書いてありました。一度も見せなかった祖母の痛みや悲しみは、全部ここにありました。
そしてそんな祖母の喜びや慈しみは、私たち家族であるということも知りました。
姉の結婚式を本当に喜んでいて、私の成人・私や兄達の就職のことも、嬉しそうに書かれていました。全員でお金を出し合ってかつらを買ったことも、とても大切なことのように書いてありました。
結局私が祖母にしてあげられたことは、祖母からもらった多くの愛情には遠く及びませんでした。
後悔しています。とても悔やんでいます。
もっと会いに行けば良かったし、一緒の時間を作れば良かったし、お手伝いすれば良かったし、手を握れば良かった。
楽しみにしてくれていたのに、成人式の写真は撮りたくないと駄々を捏ねてしまったし、未だに予定もないけれどいつかあるかも知れない結婚式にも呼んであげられなかった。
でも私は、祖母が本当に大好きです。
祖母の孫に生まれて、祖母と家族になれて、幸せでした。
私が誰よりも尊敬しているのは祖母ですし、祖母を亡くした今でもこれからも、この想いは変わりません。
ありがとうございました。愛しています。
田舎が九州でして、親戚もみんな九州でして、母だけ結婚して上京してきた…というスタイルなので、横浜から大慌てで飛行機の予約して速攻で飛んで帰っていました。
4日の夜にお通夜、5日はお葬式。
ただつらつらと書いてしまいましたが、私の祖母の話です。
ゴーオンジャーのイベントにも行ったのですが、今日はそのことは書いていません、すみません。
イベントレポは後日日記かレポートにまとめるつもりですので、もしも気に掛けて下さる方がいらっしゃいましたら、今しばらくお待ち下さいませね。
さて、先に急なことと書きましたが、本当は急なことでもなかったんですね。
8年前に肺がん・5年前に乳がん・そして1年前に脳腫瘍…これだけに留まらず本当に生涯病持ちの人で、手術してやっと治ったのに、また今度は、以前の転移ではなく新しく発病…ということが多くて、きっととてもとても痛かっただろうし辛かっただろうけれど、決して弱音を吐かない人でした。
体に手術の跡がたくさん残り、治療で髪の毛も抜けてしまったし、本当に言葉には決して出さないけれど、あんなに辛いことって無いだろうというくらいで、おばあちゃんが泣かない分、私の方が泣きたくなるくらいでした。
自分も辛いはずのに、祖父がアルツハイマー症と診断を受けてからの10年間も、祖父の介護に携わり、労り慈しんでくれました。そんな祖母の手伝いを、少しでもと思ってしていたつもりでしたが、私はやはりそう気軽には帰れず、たまの短期間の帰省しか出来なかったのが、今本当に悔やまれます。学校の課題なんて担いででも帰れば良かった。仕事なんて無理言っても帰れば良かった。もっと長く一緒の時間を作れば良かった。
孫は私だけではないですし、母の兄弟も親戚も、祖母の周りにはたくさん見てくれている人がいましたが、それに甘えていた部分があったのだと思います。それに、いつでも帰れる、いつでも帰ったらいてくれるのだと、思っていました。
脳に腫瘍が見つかってからの祖母は、あっという間に今まで出来ていたことが出来なくなり、立てなくなり、歩けなくなり、祖母の介護に帰省した期間もありましたが、そんな日々も長くは続かず、祖母は家での生活が難しくなり、病院に入ることになりました。入院してからも何度か転々と移動しましたし、体調は悪くなったり安定したり、医師からは「良くなることはない」と言われました。
だんだん食べることも難しくなり、8月に入ってすぐに、叔母からの連絡で、医師より「今年いっぱいも難しいくらいなので、いつどうなるか分からないことを覚悟して下さい」と言われたことが伝えられました。
そして4日の早朝、母から祖母の他界を伝えられました。
祖母が入院した後で、祖母の日記と幼少の頃の思い出が書かれたノートを見つけたことがあります。
戦争の時代をくぐり抜けて、小さい時から苦労の連続だったこと、辛かった日々のこと、体に痛みがあること、歩くのが辛くなってきたこと、身近な人の死がとても辛いこと、たくさん書いてありました。一度も見せなかった祖母の痛みや悲しみは、全部ここにありました。
そしてそんな祖母の喜びや慈しみは、私たち家族であるということも知りました。
姉の結婚式を本当に喜んでいて、私の成人・私や兄達の就職のことも、嬉しそうに書かれていました。全員でお金を出し合ってかつらを買ったことも、とても大切なことのように書いてありました。
結局私が祖母にしてあげられたことは、祖母からもらった多くの愛情には遠く及びませんでした。
後悔しています。とても悔やんでいます。
もっと会いに行けば良かったし、一緒の時間を作れば良かったし、お手伝いすれば良かったし、手を握れば良かった。
楽しみにしてくれていたのに、成人式の写真は撮りたくないと駄々を捏ねてしまったし、未だに予定もないけれどいつかあるかも知れない結婚式にも呼んであげられなかった。
でも私は、祖母が本当に大好きです。
祖母の孫に生まれて、祖母と家族になれて、幸せでした。
私が誰よりも尊敬しているのは祖母ですし、祖母を亡くした今でもこれからも、この想いは変わりません。
ありがとうございました。愛しています。
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